十字架その流れ2

堺福音教会 我喜屋光雄(2001年2月5日 召天)
1999年5月3日 JEC春期聖会
午後の部●メッセージ「これからの可能性に向かって」エペソ3:14-21

「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン」エペソ3:20-21

 午前の「これまでの祝福」を踏まえて、どういう可能性に期待したらよいでしょうか。神様が私たちに与えようとされるのは、私たちの思いと願いを越えて豊かなものです。自ら制限しているような信仰であっても、自分に働く神の愛をどれ程理解しているかにかかわらず、自分を越えて神様を評価すること。これが信仰です。ですから、誰でもできることです。「私の信仰はこの程度」と思いがちです。しかし、プラスアルファを考えて「神様は私の信仰を越えて、して下さる。」と信じてよいのです。それに答えて下さる方が神様であり、それをおぼえながら偉大な神、豊かな神を信じていくことです。

 さて、パウロは徹底した「恵み主義者」でありまた、徹底した「教会主義者」でした。「可能性」はどこにあるのでしょうか。教会を通して神様がなさることにあります。エペソ書に「教会により、キリストにより、栄光が限りなく神にあるように。」とキリストと教会が並べられているばかりか、キリストの前に教会が来ています。神がいかに教会を高いものに位置付けられているかを教えられます。エペソ書が今回のメッセージの土台となっていますが、「すべての霊の祝福」が既に注がれているのが教会です。なぜなら教会こそ、神の永遠の計画、神の永遠の愛の結晶であるからです。
 黙示録の永遠の都エルサレムは教会のことを指しています。黄金の道、真珠の門が描かれています。もう一つ、教会こそ、新しいエルサレムであると預言されています。21:2,9,10は教会こそ神の永遠の住まい、また、お互いの住まいである、という印象を与えます。それほどに、神の御業の中心、目標が教会なのです。宣教をゆだねられたのも、宣教のゴールも教会です。

 エペソ4:11には、5つの職務があげられています。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師。何のためでしょうか。12節には、聖徒を奉仕のために整えて、教会を建て上げるためとあります。ゴールはキリストの高さであるといわれています。
 パウロは宣教の結果、必ず教会を組織したことを使徒の働きから読むことができます。(使徒14:23)教会ができない宣教は無駄です。そしてイエス様が最後に言われた、「大宣教命令」(マタイ28:18-20)は、「偉大な委託」なのです。Great CommissionであってGreat Commandmentではないのです。教会にその大きな事業をゆだねられたのです。供給源はイエス様です。「天に於いて地に於いて、一切の権威をもっている。この私が後ろ盾だから世界に出て行きなさい。」と主は言われます。
 宣教とは、あらゆる国民を弟子とすることです。それがこの委任の中心点です。そのうえで「わたしが語ったことを教えなさい。」と言われました。
 働き人たちに、イエス様がなんとなくただよって、いつも一緒にいるというのではなくて、つくられた教会を通し、体を通し、共にいます。教会が造られ、存在するところにあなた方と共に、具体的に存在します。教会がなければ、イエス様もある意味で存在しないことになります。
 それほど大切なものが教会です。宣教の中心は教会なのです。パウロは教会を生み出すために伝道し、生み出した人たちを教えて訓練しました。

 パウロは御言葉をもって、昼も夜も人々を訓練しました。Ⅰコリント15章初めの方で「私が宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」とあります。福音の内容とは、キリストの十字架の「死」「葬り」「復活」「携挙」です。この事を知って、生活の中に当てはめ、生活すること。福音によって生活すること。彼は広く言ったのではなく、一番大事なことを、くり返しくり返し、コリントの教会の人たちに教えました。
 彼の教えのスタイルは、他の教会でも同じでした。彼は、救われた人たちを養って、そして、成長した役に立つ、大人の教会になるようにつとめました。教会として機能することがどんなに大切なことであるか、パウロの宣教のあり方によって教えられます。そして、時には生み出した教会のために苦しみました。
 ガラテヤ4:19には、福音の真髄からはずれていった教会のために「産みの苦しみ」をしたことが書かれています。教会のため、イエス様は十字架にかかられました。ヨハネ16:21には「人が子を産むときには苦しむが、生まれてしまったならば喜びに変わる。」という内容の言葉あります。
 出産には苦しみが伴います。しかし、その結果として一つの生命(教会)が誕生します。ヘブル2:10には「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」とあります。十字架は、教会の産みの苦しみそのものです。

 詩篇2:7「あなたはわたしの子。今日わたしがあなたを生んだ。」
 これはクリスマスの預言ではなく復活の預言です。ローマ書やヘブル書によれば、復活において十字架の御業は完成しました。イエス様が初穂として死人の中からよみがえったその時に、新しいイエス様ご自身がお生まれになったと同時に、もう一つの生命が誕生しました。
 これまで主は、神のひとり子としてのタイトルでした。長子の立場で復活に於いて、新しい神の子となられました。長子ということは、弟妹がいるということです。それは教会のことです。
 ヨハネ20:7でイエス様は「あなた方の父、わたしの父、わたしの兄弟」と、弟子達を初めて兄弟と呼ばれました。イエス様はこの教会のため、きよく傷のない完全な一つの人格を作り上げるため、十字架で命を捨てられたのです。その教会に御霊が注がれました。(エペソ5:25-27)
 使徒2:33によれば、このキリストを神は引き上げ、神の右に座らせて下さいました。そして今、見聞きする聖霊を注がれた、とあります。

 復活して天に上げられたことは、十字架の御業の完成です。イエス様の栄光は、十字架の御業の完成のあかしです。「よくやった。あなたのしたことは完璧です」という神の認証です。キリストの御業は完全な御業であったため、御霊が教会に注がれたのです。そして、個人的に聖霊の体験を受けるのです。

 クリスチャンというのは、教会に連なってその影響でクリスチャンであるのではありません。一人一人がイエス様を信じて確かな個人的体験を持ち、それを持ち寄って教会を形成しています。しかし、教会がなければ個人の信仰も成り立ちません。体の中の細胞の相互関係と同じです。細胞運動、セル活動はそれと関係があります。他の細胞とつながっていなければ、その一つの細胞には何の意味もありません。けれども、その一つの細胞は独立した一つの生命体です。
 同じように、私たち一人一人はイエス様を信じて、御霊によって新しく生まれ変わるという体験をします。そして同じ体験をしたクリスチャンと結ばれることによって、信じる者の共同体を形成していくのです。
 それが「教会」なのです。神は、キリストを通して生み出してくださった教会に、御霊を委ねられました。そして、地上に於いて教会という住まいを与えられた御霊は、教会に連なる、一人一人に個人的体験をもって臨まれるのです。

 聖霊の働かれる基本的な3つの働きがあります。
①新生体験をもたらす。
 神の国を見る。神を見る。神の国の主人公である神様がわかる。瞬間的に「アバ父よ」と呼ぶ霊が、私たちの霊とつながって神様に対する親しみの思いが与えられる。瞬間的か、やがてか、長い時間かけてか、それぞれだが神様に対する親しみが生まれる。もし何年経ってもこれがないとしたら、クリスチャンではないのです。そうすると、クリスチャンであることは大変辛いこととなります。御霊はまず私達に神の子である、クリスチャンであるという自覚を与えます。この神の子であるという自覚が自然に与えられるのです。がんばって「クリスチャン」だと思い込んでいるのではないのです。本能みたいなものがまず与えられて確信を持ちます。この確信を与えられることによって、何年も変わらずクリスチャン生活を続ける事ができるのです。クリスチャンであり続けるのは、御霊によるのです。まず基本的な新生における働きを御霊はされます。
②聖霊のバプテスマ
 これは聖霊の見える現れです(使徒2:1-4)。
③聖化(ローマ8:1-2)
 キリストイエスにある者は罪に定められない。「死」「葬り」「復活」そのプロセスを通して、古き人と罪の原理から切り離された。罪の原理の感覚はある。しかし原理的には切り離されている。関係ない者とされている。だから神は、その罪のため、あなた方を責めない、罰しない。無関係な者として、キリストに結ばれた者として、あなたがたをを扱われる。この真理を通して、神の御霊は働いて、罪と死の原理から私たちを解放します(ローマ8:1-2)。そして、解放された一人一人をずっと成長のために導かれます(ローマ8:4-16)。

 ローマ8章全体は「御霊」について語っています。ローマ7章は「わたし」が出てきます。「わたし」の努力が邪魔なのです。神の御霊はすべてをして下さいます。即ち、私をキリストの命に結び合わせて命をいよいよ強め、深めていく働きを御霊がされる。このプロセスを生きていくことが聖めの生活、ノーマルなクリスチャンの生活です。
 このようにまず御霊は教会に注がれました。イエス様は弟子達に対して「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土および地の果てにまで、わたしの証人となります。」といわれました(使徒1:8)。
 聖霊の力を受けるということを一人一人個人的に考えるならば、ある偉大な人は聖霊を受けてから偉大な器になったということを聞きます。D.L.ムーディー(100何年前の今で言うビリーグラハムのような人)は、突然聖霊の器になったそうです。個人が偉大な器になるということについては、他にもいろいろな人がいます。だから、誰でも偉大な器になると期待してよいのですが、実際はそうではなく、経験上もそうでないと思えます。それでも尚「今そうでなくても、いずれ偉大になる。」そう思っていよいよ聖霊に満たされて祈っていくクリスチャン、そうした教えが多いようです。現実は、聖霊を受けたが、実感がありません。聖書は現実を無視して理解できません。聖書か、経験か。双方にギャップがあれば、どっちかが間違っているのです。聖書は神のことばだから、間違いはありません。しかし、現実と合わない。多くは「私の勘違い」聖書のことばの取り違いです。今のことば、「聖霊が臨むとき力を受ける。」もそうです。個人的にある人はそうなるが、ある人はそうならない。これが現実です。
 聖霊を受けたが、成長しない人、よけい変なクリスチャンになる人もいます。では御言葉の意味はどこにあるのでしょうか。個人ではなく、教会に対して、集団に対して言われた言葉と考えれば理解できるのではないでしょうか。「聖霊があなたがたに」その教会のあり方によって、力にもなるし、どうでもいいような教会にもなります。聖霊が下ると教会はどうなるのでしょうか。」

 〈聖霊のバプテスマに関する見解〉
 第一のターゲットは「教会」であり、個人ではありません。もちろん個人的な経験ですが、それで終わりではなく、互いにつながりがなければあまり意味がありません。それぞれが受けた経験は、同じ経験をした人たちと結びあっていかなければなりません。聖霊の賜物の第一の目的は、教会を造ることです。そして一致をつくります。そのような教会が存在すると力ですし、魅力です。周囲に影響を及ぼす、強力な磁石のような力があり、人々を引きつけます。そして、教会がそういうかたちで動いていくと宣教される人々が救われて、満たされ、成長していきます。地の果てまで広がっていきます。
 使徒行伝における聖霊のバプテスマは、いずれも個人としてよりも集団としての体験です(使徒2:1-4)。異邦人コルネリオの聖霊のバプテスマを受けた記事は、彼とその家族です(使徒10:44-46)。エペソの信者のところは、12人が聖霊を受けました。ヨハネのバプテスマから、イエスの名によるバプテスマへ。パウロが12人に手を置いて祈ると異言で祈り始め、偉大なエペソ教会の始まりとなりました(使徒19:1-2)。中心の人々(集団)に御霊が注がれ、集団から、個人へとつながっていくのです。教会を通して個人に影響が及ぶのですから、教会につながることは大事です。
 聖書のどこを見ても、一匹狼を用いるとは言っていません。神の理想は、平凡な人であるけれども、一致を通して非凡な力となって、それが大きなあかし人の役目を果たすことです。
 そういうことがなかなか起こらないので非常手段として、ビリーグラハム、ラインハルトボンケのような器が起こされるのです。この事はノーマルなことではなく、アブノーマルなことです。本来は、教会がそうなるべきです。神の理想は、平凡な者達の集まりではあるけれども、そこに御霊の恵みを受けて共通の体験と感性で結ばれて進んでいくときに教会という共同体を用いることです。
 私達が努力して一致することはできません。だから「教会は一致しなさい。一致した教会を創りましょう」と言っても、保証がなければ実現しないのです。けれども、それをするために御霊が注がれ、既に一致そのものが与えられました。それぞれがつながって、この方のレベルで物事を考えていくところに、自然に一致が創られていく。ここに大きな希望があるのです。この御霊は、一致を創るために与えられて、同時に、個人に満たすというかたちで臨んで下さるのです。

 イエス様が「渇いている者はわたしのところに来なさい。わたしを信じる者はその腹から生ける水が川となって流れ出る」と言われた時、その次のことばで「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったのである。」という注釈がついています。
 イエス様は天に上げられ、栄光を受けられました。十字架のプロセスを通して、私たちの受ける祝福のすべてを与えて下さったのです。信じる個人にもその事によって、聖霊によって与えられた新しい命があふれ、川となってあふれるという経験をするのです。
 新生を泉にたとえるなら、聖霊のバプテスマは川にたとえることができる。泉としてとどまるのみならず、そこにある泉がチャンネルをもって外に表現していく。聖霊のバプテスマは、私という人間性を越えて働き、お互い結び合うことで一致がつくられます。その一致から一人一人の霊の賜物が開発されていくのです。

 エペソの4章からそんなことが教えられます。
エペソ4:3「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」
 御霊は一致の方。この一致によって、一致しなさい。がんばるのではなく、がんばらなくても御霊は「一致」なのです。この方に素直になれば、この御霊によって皆一致することができるのです。御霊というクッションを通して、御霊という接点を通して、私たちは経験を越え、男女の差を超え、背景の違いを越え、性格、好みを越え、霊的に一致することができるのです。そのところから、同時にキリストは十字架を通して教会に賜物を与えられました。そして教会を通して一人一人に霊の賜物が与えられたのです。
 エペソ4:7「私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りにしたがって、恵みを与えられました。」
 「恵み」はカリスマ(賜物)のことです。キリストは本来、人間のものであった能力をサタンの手から奪い返しました。
 エペソ4:8「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」
 まず、教会を回復されました。教会で賜物が明確になり、分かち合われていくためには、それぞれ、いくつか「柱」、基準のようなものが与えられ、それに従ってそれぞれが自然に奉仕に携わっていく。そうした自然の流れの中で、それぞれの賜物と言いますか、持ち場、立場と言うものがはっきりとわかってくるのです。
 「柱」というのは11節です。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」
 目的は12節です。「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、」「整える」とは「整骨」の意味です。多くの教会は、骨はそろっているが、あちこち骨がはずれている状態です。部品はそろっているけど、互いにつながっていない。これが多くの教会の現状ではないでしょうか。これがちゃんと整えられるためには、それぞれの人が、どう動いて、どの立場で、どの関係で動いたらいいかという基準が必要なわけです。その基準として、この11節のことが言われています。これはまた、イエス様ご自身の働きの特徴です。

 イエス様は偉大な使徒であり、偉大な預言者であり、偉大な伝道者であり、偉大な牧師また教師であられました。まずイエス様は、命を私たちに下さいました。キリストの満ち満ちた命に教会はつながっています。同時に教会は、キリストがなさったその業につながっています。イエス様がされたその能力を教会は受け継ぐことになります(ヨハネ14:12)。
 ある人は、「現在の使徒は、将来において再び回復する。」と言いました。そういう人達が何人かおり、彼らは超教派的に働きます。ピーター・ワーグナー師によれば、「5000人以上の教会の牧師は使徒」だそうです。そうすると、チョー・ヨンギ先生は、使徒の中の使徒でしょう。70万人のメンバーの牧師ですから。一教会の牧師であるだけでなく、それ以上に周りに影響を及ぼすところの使徒的な働きをしています。そういう解釈をする人もいますが、お互いこの小さな教会で、偉大な人が出て来るのを待っていたら、いつになるかわかりません。
 JECの中に、使徒、預言者を招いて、全体の奉仕をしてもらうとしても、そう簡単に見つかりません。JECの中の人で、使徒、預言者に召された人に、教会を越えて働いてもらうにしてもむずかしい事で、こういう人がいつ現れるか、現れたとき、それぞれの聖徒の働きがはっきりしますというのであれば、いつまで待ったらいいのでしょうか。
 今このことを当てはめることができるとすれば、1人の使徒と考えるのでなくて、一つの理念、或いは、宣教の機能と考えれば、どの教会でもこれを当てはめられます。

 堺福音教会は、とりあえず自分の教会には、宣教理念としてとらえています。無理に5つの理念を創るのではなく、これまで導かれてきた宣教について、強調して来たことを具体的に理念として掲げ、その理念を中心に、それぞれの信徒達が関わっていくというふうに動いています。完全にきちっとなっているわけではありません。しかし目標は、はっきりしています。何となく動くのではなく、どういう目的で関わっていくか、骨組みがはっきりすると教会の中でそれぞれが、どういう働きに、どんな奉仕に、何をしたらいいかというのがわかってくるのです。
 堺福音教会の3つの理念。
①牧会宣教:教会中心の伝道であり、宣教である。範囲が非常に広い。
②海外宣教:世界宣教。国内であれ、海外であれ、超教派であれ、与える性格をもったところの宣教。
③拡大宣教:正しい名称かわからないが、英語では、Church Planting。教会を植える。種教会を植える。生長する種を埋めていく。

 宣教のあり方は、ただ行って福音をばらまくのではなく、種を受けて、信仰に入った人たちが、教会をつくり、機能していくことです。教会として成長していくと、他の子供達を生み出していきます。これが聖書に見る宣教の標準的なあり方です。JEC全体で開拓を始めるのもお互いの励みになり大切ですが、それだけでは足りません。もっと身近なのは、教会が教会を生みだすことです。いくつかの教会は、そういう傾向できました。堺は、これまで8つの教会を生み出し、一つは、独立して親をもしのぐ勢いで伸びています。子供の段階で7つ。沖縄チャペルが一番新しい。
 いろんな働きの分野を明確にすると、それぞれが自分にあったところに集まります。直接に大きな宣教に関わる人と共に、その人を助ける人も必要です。働きの場が、明確になっていくと、職場が広がり、働く人たちが喜んでそれに従事することができます。その結果、4:12にあるように、聖徒が持ち場、立場に整理され、キリストの体を建て上げていくのです。そして、ついにキリストの満ち満ちた高さにまで成長していくのです。
 教会がつくられ、成長していくということが、宣教の重要な問題ということを学びます。「わたしたちの願うところ、思うところを遙かに越えてして下さる神様の働き」というのは教会を通しての働きです。個人には限界があります。しかし、教会が整っていくとき、神様に愛され、選ばれ、考えている以上に尊い偉大な存在であることに気づきます。

 聖書は教会を、キリストと同じ立場に見ています。
 教会が偉大な理由は、キリストがすべての主権の頂点に立っておられるお方だということです。この方に結ばれ、この方の資格と、力、内容を受けている。これが教会の偉大さなのです。自分をそう評価できるでしょうか(エペソ1:20-23)。
 「イエス様は偉い。でも私は偉くない。イエス様は偉い。でも教会は大したことない。」そんな思いが、私たちの中にあるのではないでしょうか。見たところ人数も少ない。平々凡々の人ばかりで、偉大な人は集まっていない。
 でも、この人達に御霊が注がれて、そして、御霊を通して神様が愛して、その賜物を豊かに供給しようとしていらっしゃるのです。私の想像以上に、わたしがクリスチャンであるために、主は私達を愛して下さったのです。同時に、クリスチャンの共同体である教会を、どれだけ愛していらっしゃることか。ご自分の御子をさえ惜しまずにささげて下さったほどに、私達が感じている以上に、教会は偉大な存在です。イエス様は偉い。教会も偉い。私も偉い。なぜなら、この方に直結しているから。この方と一体であるから。積極的にお互い、教会である私を、自分たちを評価しましょう。この積極的評価と信仰が足りないため、教会はいつまでも、足りない信仰のとおりになっているのではないでしょうか。「あなたの信仰のとおりになるように」とあります。

 こうした奉仕の理念を中心に、1人1人が生かされるように。一人一人が信じているけれど、どこから本格的に自分ではっきりとわかるかたちで、教会に関わっていくのか。そのスタートは献身です。ローマ12:1ではこのように言っています。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」そして、これが礼拝だというのです。
 旧約の礼拝の型を言っています。神殿や幕屋で全焼のいけにえとしてささげられた動物は100%神のものです。全焼のいけにえをささげることを、礼拝者は神を礼拝すると言うことを表しています。神様は、このいけにえを通して、その人は完全にわたしのものであると言われます。
 信者には、2種類の人がいるようです。
①信じて、自分の都合で信じる。死ぬまで自分中心で信じる。そういう人が多い。
②神様中心に生きる。早い段階で、神中心の信仰に移ることが望ましい。
 またそのように勧めています。神様の側から見れば、私たちは既に、イエス様の尊い代価、血潮を流して買い取って下さったから、権利として否応なく、私たちは神のものなのです。
 「自分勝手にしたい。救われてこれだけで結構。後は、わたしのやりたいようにさせて下さい。」神様はそれをお許しになります。しかし本当は、そんな権利は無いのです。なぜなら血によって買い取られたものだからです。
 パウロは、Ⅱコリント5:15で「キリストが命を捨てられたのは、その命をもって、買い戻して下さった私たちが、もはや自分のために生きるのではなく、買い戻して下さった方の為に生きるためである。」という風に言っています。
 にもかかわらず、神様は「さあ、信じたあなた方はどういう信じ方をしますか。自分中心に御利益的に信じて生きますか。わたしはあなたを救ったが、続けてあなたの生涯を預けて、わたしの考え通りに生きるクリスチャンにしますか、自分の計画どおりに生きるところのクリスチャンにしますか。どっちにしますか。」
 イエス様も招いていらっしゃいます。「重荷を負って苦労してるものはわたしの元に来なさい。あなた方を休ませてあげます。」(マタイ11:28)。これは救われた人の状態を言います。「イエス様信じて、あの悩み苦しみから解放されました。あの癖この癖、悪い癖からも解放されました。平安です。重荷がありません。ハレルヤです。」
 次に、イエス様は招いておられます。「くびきを負ってわたしと共にある生活をしませんか。わたしは柔和で、心の低いものです。くびきを負ってわたしに学ぶ生活を始めませんか。」
 「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎ来ます。」(マタイ11:29)。
 一見くびきは不自由に見えます。誰も自分の意志を他人に束縛されたくはありません。「金持ちにしてやる。しかし、一から十まで、私の言うことを聞け。」というのより「貧乏でもいい。自分の好きなように生きたい。」これが人間の本性でしょう。

 救われて、自分の好きなように生きるのも良いでしょう。しかし、もう一つ意志、神様の意志と一つとなって生活されませんか。あの重荷この重荷が、無くなったという表面的なことだけでなく、いつまでも魂の深いところに平安がある生活はどうでしょうか。
 一番大きな重荷とは何でしょうか。それは私自身です。好きなように生きるというのは、自由に見えます。しかし何をしていいいかわからないものです。何でもできる全能の力があればいいけれど、そんなものはありません。明日のこともわからないのです。業績の良い会社に入ったとたんに、経営が悪化して倒産する。よくあることです。今の時代は特にそうです。自分自身を信じられない。「大丈夫」と思っていたことが信じられない。そのような、頼りない私を頼って、信じて、確信もって将来を生きていくことができるのでしょうか。そのように、強がっているけど、弱いものです。深いところに恐れがあります。基準も目標もなく、生き甲斐もって生きられると思っていない。神様はよくご存じです。
 主はこのように語っておられます。
 「わたしのペースに合わせませんか。わたしはひどいものではありません。あなたがあなたを愛している以上に、わたしはあなたを愛しています。あなたがあなた自身を理解している以上に、わたしはあなたを理解しています。そのため、あなたのために、わたしは命を捨てました。あなたの生涯をわたしに委ねませんか。自分中心ではなく、御心中心になる決心をしませんか。御心にあなたの軸足を置いたところの人生、そして、クリスチャン生活をしたいと思いませんか。」
 以前、朝早く散歩していて犬を見かけました。とぼとぼと、やせこけて歩いていました。「あの犬こそ自由だ。」と思いました。飼い主にも、誰にも縄をつけられない。しかし、何とも寂しい、わびしい生活ではないでしょうか。
 私達は、何をしていいかわからないのです。自由が負担です。束縛がない自由は、本当の自由ではないのです。英語で“Freedom”の“dom”は「囲い」の意味です。囲いがはっきりして、自由が自由になります。囲いのない自由は不自由です。

 「わたしにあなたの生涯を委ねませんか。あなたは救われて神の子となり、生きた聖なるものとされました。現在、過去、未来もすべて、あなたに付随するものすべてを、わたし自身に委ねることをしませんか。」そうすれば、「魂に安息が与えられます」とイエス様はおっしゃっています。ローマ書12:1においてパウロは、これが、「霊的な礼拝です。」といっています。ある意味で、神の御心に献身するということは、神の言葉に献身するということです。というのは、神の御心は、神の言葉にあらわされているからです。

 ローマ書12:2では「この世のライフスタイルにはまってはいけません。べつのライフスタイルにはまりなさい。」と言われています。もう一つのライフスタイルとは、「神のことばを基準にして生活する、御言葉のライフスタイル。」です。
 そうしていくと、神の御心は何か、自分の充実した生き方は何かが、わかってきます。この線上で、自分が何者かが教えられます。それが、ロマ12:3です。
 どのような生き方をしてきましたか。どんな友達がいましたか。どういう人間関係ですか。どういう家庭に育ちましたか。どんな学校で学びましたか。どんな会社に勤めましたか。どういう教会に育ちましたか。いろんなものがあります。歴史を否定することはできません。
 通ってきた人生があまりにもいやなので、思い出したくないので書き替えたい。そして、理想的イメージを描いて当てはめてみたいと思っても、それは偽りです。事実ではありません。問題の解決にはなりません。神は、私たちの生い立ちをご存知です。どう育ち、どういう性格、傾向をもっているかご存知です。そこには、プラスもあれば、マイナスもあります。

 「神様。あなたは、生い立ちから私をご存じです。勇気を持って認めます。子供時代は、誰にも言えず寂しく、孤独でした。でもあなたはご存じです。今日まで引きずって来たマイナス部分を認めたくないです。でもあなたはご存じですから、今認めます。表面はたくましく、力強く、明るく振る舞ってきましたが、心の中にいつも不安がありました。そして自分は弱く、深いところに劣等感がありました。こういう私です。これをあなたが救ってくれました。そしてこういう自分を委ねていきます。」と祈ることです。
 そしてどのように生かされるか。 まず、あなたが自分に正直になるとき、神様は、マイナスに働いたあなたの傾向を、プラスに働かせます。自分のあり方、自分の範囲を正直に認め、過小も過大もしないで知れる範囲でありのままを神様に認めていくと、そこに御霊が働かれてわたしの霊の賜物となります。神様が資質的な賜物として与えて下さった生まれつきの特徴が、美しいかたちで導かれます。出発点は「献身」です。「主よ。わたしの生涯をあなたの御心に従っていく決心をします。」と祈りましょう。
 その延長で、次のようなことがおこります。

  • 御言葉によって生きること
  • 賜物が開かれること
  • 賜物が教会に発揮されるという生き方
  • 教会において発揮された自分の才能が、社会において用いられる

 この順序がローマ12-14章に書かれています。教会で成長していくとき、決して教会だけに固まる、ゲットーに固まる狭い人間になるのではなく、教会という場を通してわたしが開かれたとき、社会に有意義な人間に成長していくのです。
 それを通して、私は教会に確かにつながっているという、教会の場において私は生かされているという確信、自覚を見ることができるのです。このように教会はわたしの夢を解放するチャンネルであることを知ることです。
 私達の持ち前の才能が神の御霊によって色付けされ、麗しくかたちつくられ、用いられるために御霊は教会に注がれました。神の御心中心の生活をしたいと願う一人一人に、御霊が賜物を与えて下さるのです。

 「末の時代に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」
 具体的には教会に注がれます。ヨエル書には「息子、娘は預言する。」とありますが、旧約時代にはこれらの人は預言する資格がなかった人達です。
 「年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」
 御霊が、私達お互いの夢、幻を解放するため注がれました。キリストは、教会が明らかにされ、教会において私が生かされるように導いて下さいます。そして御霊は私達を生かし、教会を生かし、力強い神の子として、神の栄光に彩られるにふさわしいかたちで私を導いて下さいます。教会を通して神様は、私たちの夢をその想像を超えた豊さを実現しようとしておられます。だから自分の所属している教会はつまらないと思わず視点を変えて、イエス様とつながっているのだから同じように偉大である。私は素晴らしい、あなたも素晴らしい、私の教会は素晴らしい、と考えましょう。
 この素晴らしい教会を中心に生活、人生を整えていきましょう。自分や教会に低いイージを持っている人は、高いイメージを持って信仰によって進もうではありませんか。JECの諸教会を通して、神様が力強く働いて下さると信じます。