十字架その流れ1

堺福音教会 我喜屋 光雄 師(2001年2月5日 召天)
1999年5月3日 JEC春期聖会
午前の部●メッセージ「これまでの祝福」 詩篇1:1-3

 「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」詩篇1:3

 まず「流れ」について考えてみましょう。
 詩篇1:1によれば「流れ」とは御霊の流れのことであり、「恵み」です。「恵み」とは何でしょうか。例えば、エペソ1:3には「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」とあります。既に引き上げられ祝福を受けている。キリストにあって天の次元にある。その次元に生きる。既に祝福を受けている。これが「恵み」です。

 エペソ1:1-14によれば神の永遠の計画がわかります。キリストにあって選ばれ、愛され、定められ、時至って、キリストの十字架を通して救われた。一人一人が選ばれたもの。クリスチャンになるべくして召された。すべては、神の絶大な愛のゆえです。なぜわたしのような者が選ばれたのかと思いますが、ともかく私は、クリスチャンなのです。主を知り、教会に連なる時、神が愛してくださったことがわかります。

 JECのこれまでをふりかえってみましょう。創立者は、スウェーデンの宣教師Mr.&Mrs.ヤンソンでした。ヘルゲ・ヤンソン師の賜物は、組織家(枠、レール作り)でした。後の働きをやりやすくされた方でした。神様はふさわしい賜物をもった方を、ベストタイミングで与えられました。優れた外交家で、大きなヴィジョンを持ち、周りを励ましました。神様のために大きな事を考える方でした。‘79年に67歳で天に召されました。Mrs.ヤンソンは1995年に84歳で召されました。
 1952年の暮れからスエーデンから着任間のない、エリック・サンベリ師夫妻(和歌山へ)、ターン師(奈良へ)、エリクソン師(ニコライセン師:八尾へ)、ホフナー師夫妻等。堺を拠点に、さらに他の宣教師が来られ、働きは広く、深く広がっていきました。その中でユニークな人物の1人がフレッド・スンベリ師です。真理の教師であり、珍しいタイプの方でした。普通スウェーデンの人はスマートさを求めます。時間を守り、気のきいた話しを好みます。そうでないとそっぽをむかれます。
 フレッド・スンベリ師は、スマートでなく真理をむき出しにし、大切な物をそのまま差し出すような方でした。ある人はその正直さに打たれ、ある人はつまずいたかも知れません。福音の真理をもって、日本の儀式的、形式的社会の中に福音のメッセージで切り込んで行きました。個人的に初期に関わり、4~5年共に働く中で、そのライフスタイルから非常な影響を受けました。

 初期の献身者の間で、それぞれ個別に取り扱われたのが「十字架」のことでした。スンベリ師の教えを中心に「十字架」の教えが摂理的にJECに流されました。そしてJECの霊の流れを形成しました。これはJEC独自のものではあっても独善的なものでなく、まさにこれが福音の中心であるし、福音の真髄を語った使徒パウロの信仰そのものです。
 パウロは「福音主義者」でした。これは幅広い言葉です。多くの教会がこれを名のります。日本では、福音主義教会とカリスマ教会が対立している状態ですが、カリスマ派も福音主義派の中にはいると思います。福音主義者とは何でしょうか。パウロは徹底した「恵み主義者」であった、と言うことが出来ます。「福音」とは「恵み」です。律法主義に対立するところの恵みのメッセージ。その原点はパウロ自身の十字架の体験でした。
 ガラテヤ2:20の御言葉によって、多くのきよめを求める人たちが変えられました。「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
 そして、「私は神の恵みを無にしません。」ということばが続いています。「私はキリストと共に十字架につけられた。」彼はそこに来るまで、自分の罪深さを深く探られました。そしてそれに比例して律法がどんなに厳しいものか経験しました。律法を行おうと努力しても決してそれを行うことが出来ないというジレンマに悩みました。「私は、なんと罪深い人間だろう。しかも正しいこと、きよいことをしようと思ってもそれをすることが出来ない。意志があっても、私の決意だけではそれをすることが出来ない。私は本当に無力だ。」彼は葛藤によって自分の罪深さ、無力さを知り、悩みました。善意があっても悪意となって現れる。もう1人の人間がいる。もはや罪を犯させるのは私でなく、私に宿るもう1人の人間、私に宿る罪。「罪の原理」が宿るのを知ったのです。(ローマ7章)

 ローマ7:24「私は、本当にみじめな人間です。誰がこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」
 当時、殺人者が、殺された相手と共に穴蔵に放り込まれる刑罰がありました。自分が殺した相手から逃れようとすると、縄目が食い込み、腐敗が鼻を突く、蛆が伝わってくる。パウロの内面の葛藤が、この刑罰にたとえられられているのです。
 ここまで悩むクリスチャンは少ないと思います。私も、パウロ程ではないかも知れませんが、同じところに追い込まれました。その時、どこにも行く場所がなかったのです。その時一つの真理を示されました。ローマ7:25「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」答えは「キリスト」です。through JESUS CHRISTです。ガラテヤ2:20の体験です。キリストの死=私の死。キリストと共に十字架につけられた。では、私は?私も死んだ。この内面の問題にどう対処したらよいか。「心では神の律法(法則)に仕え、肉では罪の律法(法則)に仕えている。」のです

 ローマ8:1はそれに対する説明になっていると思います。「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」キリストの死を通して、この古き人との関係が切られ、その古き人に対して責任を感じる必要がないのです。古き人は罪しか犯せません。教育も、改良も、矯正もできないのです。死ぬ以外に方法はありません。「死」以外にこの縁を断ちきることは出来ないのです。しかし私が死ぬと、みもふたもないので、私が死ぬところをキリストが死なれました。
 そして信仰は「キリストにあること」です。それは「キリストの経験にあること」です。それは「キリストの体験と一つになっていること」です。それは「キリストの死の中にある私」を認めることです。「キリストと体験を共有している私」を認めることです。すなわち、キリストを信じることの意味は「キリストが死んだ=私が死んだ」と考えることなのです。(ローマ6:10-11)
 神はこの方程式を、救いの法則として定められました。キリストが死んだとき私も死んだのです。古き人との縁はすでに切られています。だから彼のすること、彼の誘惑することについて答える必要はありません。私は責任をとらなくてもよいのです。(ローマ8:12)まさに信仰は、聖なる「横着(おうちゃく)」なのです。

 アダム以来の罪の原理から、解放するのは、十字架の法則です。それを私のものとして、当てはめる以外にありません。これは奇想天外な発想です。だから宗教的な人、熱心な人には、かえって分からないのです。パウロも熱心なパリサイ人だったので、この事に気付くことが出来なかったのです。しかし神の恵みによって、御霊によって十字架の真理が彼に示されました。(ガラテヤ1:11-12)
 十字架の真理にはいろんな側面があります。しかし、一番大きな意味は、この「合一」の原理です。“Identification”キリストと一つになる。キリストがしたことを自分のものとすることを可能にするキリストの「十字架」。
 天におられてありがたい言葉を発しても私たちのものとならない。しかし天にある恵みが私たちの生活のレベルに届いて、手を伸ばせば触れることが出来る近さにそれを置くことが出来るためにキリストは天から下り、人となり、私たちの代わりに「罪人の代表」として十字架におつきになったのです。私たちの犯した具体的な過去の罪の為だけでなく、罪の根本の問題についての解決のためにキリストは死なれたのです。
 パウロ書簡によると、「もしキリストと共に死んだ、と言うことがわかれば、キリストとも体験を一つにしたという事がわかるでしょう。」とあります。
 そして、この「十字架」の死は前奏曲です。キリストは死んでそのままでなく、墓から3日目によみがえられました。キリストの「死」「葬り」と一つとわかるなら、キリストの「復活」とも合わされていることがわかります。私もその命に含まれ、新しい命、生き方に復活したのです。

 そんなことを知らずに私たちは信じるのですが、そこまでの経過をビデオのスローモーションで見るとするなら、まず神の側で、キリストの死があり葬りがあり、結果、復活したということです。キリストを信じるという事は「キリストに含まれている」事を信じるという事です。
 「キリストにある」という自覚は、一生懸命押したり引いたりすることではないのです。キリストの「死」「葬り」「復活」に含まれている。キリスト者は「死んで葬られて復活したもの」として古き人から切り離され、キリストの復活の命に結び合わされ、古いものから、罪から切り離されて、命の原理に結び合わされているのです。

 パウロは「きよめ」を4つの事柄にたとえています。
①バプテスマ(ローマ6:3-4)
  バプティゾー(ギリシャ語)は「浸す」という意味です。染色がこの事をよく表し ています。布を染料に浸すと、内も外もその色になる。同じ糸と布なのに、以前と違 う。同じだが違う。糸の本質は変わらない。でも、糸にしみこんでいるそのものは、完 全に変わっている。例えば以前は白だったものが、赤に染められて赤色に染まった。赤 の糸に変わった。こういった意味を持ったものがバプテスマです。
  バプテスマはキリストとの関係を表します。水にからだが沈むことは葬りを表し、水 からあがることは葬りから復活を表します。「死」「葬り」「復活」は福音の真理であり、 信仰の内容そのもです。この真理に生きる、具体的なあかしが洗礼なのです。
②接ぎ木(ローマ6:5)
  渋柿の枝を切って甘柿に接ぎます。古いところから、キリストにつながれる。私た ちも渋柿で、渋い実しか実らせなかった者です。甘い実を実らせるため、キリストに 接ぎ木されたのです。
③手術(割礼)(コロサイ2:11)
  体の一部を切り取ること。ユダヤ人の間で、アラブ人の間でも今も普通に行われて いることです。コロサイ人の手紙2:11「キリストにあって、あなたがたは人の手によ らない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」
  キリストによる手術を受けて、古き人を脱ぎ捨てたのです。古き人と切り離すには 手術が必要です。以前、淀川キリスト教病院で内臓までつながった双子の赤ちゃんの 写真を見ました。昔の技術では切り離すことは全く不可能でした。昔なら、シャム双 生児のように悲惨な運命をたどった(興行師によって見世物にされる)かもしれませ ん。しかし、今は技術で切り離せます。術前と術後の切り離された写真を見たとき、こ の真理を思いました。十字架のメスで私達は古き人と切り離されたのです。
  スンベリ師が「福音とはなんと素晴らしく微妙でしょう」といったことがあります。 十字架のメスで、私たちの体の中で、毛細血管のように張り巡らされた、古き人を見 事に切り離されたのです。
④衣替え(コロサイ3:9-10)
  「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着なさい」と、聖書はしばしばいっています。私た ちは、古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着た者です。(エペソ4:21-24)
  キリストについて学ぶことは、キリストの教え、真理です。イエスにある真理とは 「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着ることです。」

 十字架の原理では、私はキリストと共に決定的に十字架につけられ、向こうで処理が済んでいることになっています。しかしうっかりすると、再び古い人と一つになってジレンマに陥いるのです。一度死んだ、キリストと共に生きている事実、真理。この原理を日々、当てはめ、応用しなければなりません。そうしなければ、いつの間にか古い人を着て行動してしまいます。動機は新しい人、しかし古い人の習慣で行動していることに気付くことです。でもどうにもならない場合があります。しかし、気付くことは大事なことです。

 エペソ4:25「ですから、あなた方は偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」
 ここでは、「愛」の問題が語られています。(エペソ4:25-32)「愛しなさい」しかし、どうやって古い人のままで愛せますか。古い人のままで愛することは、律法的になり、負担となります。すでに古い人から切り離され、新しい人、キリストと結ばれ、自分の思いを越えて、キリストが私に代わってして下さると信じることです。
 私の責任は、その人を「赦す」「愛する」意志を表明することです。たとえ気持ちがそうならなくてもキリストの命につながれていると信じて、「イエス様、この人を赦します。愛します。あなたがこの決定の通りに働いて下さい。」と祈ることです。
 古い人と新しい人と切り離すことが出来れば私は、古き人から新しい人に移って、愛の行為、実践をすることが出来るのです。

 この真理を日常生活に応用しましょう。古き人と新しい人が同居しているクリスチャンの神秘。どうして神は、この古き人を徹底的に取り去ってしまわないのでしょうか。それは神の知恵です。
 エデンの園に二本の木(命の木と善悪を知る木)を置かれたのと同じです。命の木の実を食べれば永遠に生き、善悪を知る木の実を食べれば死にます。不幸にして人は善悪を知る木の実を取って食べました。それが原因で人類は罪人となりました。罪によって死が入り、死が全人類を支配したのです。(ローマ5:12)
 どうして、そんな危険な木を神様は置かれたのか。それがなかったら罪もなかったのにと思います。それには2つの意味があります。神は私たちを神に似たものとして造られました。そして神様の特徴は自主性ということです。自分の意志で判断して選ぶことが出来るという能力です。神は人に意志の自由、選択する自由を与えられました。もし命の木のみで相反する木が無ければ、どうして自由意志を使うことが出来ますか。その存在を認めることが出来ますか。試金石がなければ自由意志はあってもないのと同じことです。善か悪か、闇か光か、右か左か、どちらを選ぶか、というところに人間の価値があるのです。
 それと同じで、古き人(善悪を知る木)を神は全部取り去られたのではないのです。また、命の木(キリスト)のみを残されたのでもないのです。私たちが、肉か霊か、御霊か行いか、恵みか律法か、自分の力かイエス様に頼るか、どちらかを選べるようにされたのです。そして自分で判断することによって自分自身がどんなものか明らかにされ、道徳的に成長できるように、古き人を切り離したけれども、古き人を取り除かれなかったのです。
 だから「御霊によって歩め」とは、即ち「キリストにある立場を選び取って生きなさい」ということです。そうすれば、「肉の欲をとげることは出来ません。」(ガラテヤ5:16)
 
ですから、神様の扱いというのは知恵に満ちています。パウロはこの恵みを終生追い求めました。これがわかったとき、彼は、たまらなくなりました。「キリストのすばらしさを十字架を通して知ったとき、自分のキャリア、経験を塵芥と思った。」と言っています。そして「いよいよ私はキリストの中にあるものと認められ、より深くキリストの死に合わせられ、より深く、力強くキリストの復活にあずかりたい。もっと深く十字架に、もっと力強く、もっと深く自分の限界能力を知ることによって、その深みにあるキリストの復活の命に触れたい。」と願ったのです。(ピリピ3:7-14)
 このパウロの生き方は、クリスチャン生活そのものです。この十字架のプロセスをいったり来たりする生活。十字架の「死」と「葬り」と「復活」。そしてもう一つ「キリストと共に天にある」というこの4つの段階をいったり来たりする。いったり来たりしている間に、いよいよこれが実感として、深く、力強くなっていく。クリスチャンの生涯は長い旅に出るというのでなく、この短い行程をいったり来たりする生活だと思います。その道として、キリストは十字架の御業をなさったのです。「わたしは道である。」と言われたその道を通じて、平生生きている俗の環境から、神の霊の天的な次元の恵みの座にいきなり、行くことが出来るのです。
 人間の弱さ、可能性など、人間のレベルで生きている中で、しかも同時に、一本の道がつけられて神の臨在にまで通じている。そしてその道を通ることによって、そこに行き日常に帰り、日常がそこにあり、霊の次元が日常にある。このような生活が十字架の生活を通して可能なのです。(ヘブル10:19-22)
 「これを生きてほしい」ということが、神様の強いすすめなのです。パウロは、このワクワクするような生活を発見しました。彼は偉大な宣教師でしたが、彼の特徴は偉大な求道者であったことです。その結果が宣教だったのです。
 
 私達の教会のあかしは何でしょうか。宣教、リバイバル、それも大事ですが、一体何を伝えるのかということではないでしょうか。何がベースになってリバイバルが起こるのでしょうか。何がベースでリバイバルは継続して行くのでしょうか。雰囲気に動かされる。ムードに踊る。それがリバイバルでしょうか。ちがいます。JECはどちらかというと、こういうところが他の団体と比べて冷めています。冷たく消極的だと思われますが、実は大事なことなのです。
 私たちは、御言葉によって臨在を経験しなければなりません。個人的に、又、日常的にリバイバルを経験しなければなりません。それを生きることが教会のリバイバルであり、そして教会からそのリバイバルが外に広がっていくということになるのです。
 用意もなく神様が突然に大きなリバイバルを注がれたとしても、そのことを教会が知らなかったということであれば、そのリバイバルは無駄になります。これを受け入れる、刈り入れるところの器である教会が一体何を知っているか。福音を知っているのか。福音を生きているのか。
 JECはこういう傾向で来ました。いよいよこれが変わった教えではなく、これこそが福音の本流であるという自負心を持って、確信を持って、自ら生きるだけではなく、もしこういうことについてあいまいな他の教会、教団、教派があるならば、私たちから彼らに証しする自負と気概を持たなければなりません。

 私自身、パウロのようにガラテヤ2:20によって大きく変えられ、それ以降十字架にとらえられる者となりました。それ以来、40年以上同じ十字架のメッセージをしています。時々うちの教会の人に謝ります。「ごめんなさい。同じ話しばっかりして。でもこの話ししかできないので、もし変わった他のお話を聞きたければ、牧師を替える以外にありません。」しかし。だいたいの皆さんは喜んで聞いて下さっています。

 これはお米のようなものです。ご飯に飽きたという人はいないでしょう。JECはこのお米を大切にします。お米で生きています。これからも生きようとしています。おかずはつくけど、基本は、お米です。
 うっかりすると、「お米なんてつまらん」と言って、変わったおかずばかりもって来て食べるようになります。はじめは良いかも知れませんが、長続きはしないと思います。そういう方向に向かっている教会、働き、運動は意外に多いのです。私たちは、これまでいただいてきたお米を、改めて評価しなければなりません。それをおいしくいただくためにおかずをつけることは大事ですけれども、お米そのものを否定することは出来ません。
 
 「私はキリストとともに十字架につけられました。」
 ややもすると私たちは、奉仕や教会生活という、よいことに対して律法的になるという罠が次に待っています。私もそうでした。韓国のある先生は、「牧師は一日3時間祈らなければならない。信徒でも一日1時間祈らなければならない。」とおっしゃいました。「先生は一日何時間祈っておられますか。」と聞かれた時に、答えに困ったことがありました。
 私は、外はまじめに見えないかも知れませんが、中は真理に対して非常にまじめです。いろんな伝記を読んで、ああいう人になるためにこうしなければならないと思いました。J・ウェスレーやメソジストの人達は朝4時に起きた、と書いてあると「自分も4時に起きなければリバイバルは起きない。」と思いました。しかしよく失敗しました。そのたびに胸をたたいて悔い改めました。「なんと言うことだ。4時に起きられないとは何事だ。」
 そして臨在に生きると言うことは、キリストを24時間、瞬間瞬間、意識して生きることだと思っていました。「あなたはこのキリストを意識していますか。」そう問われたら、正直そんなことはありません。一日に何回か思い出しているけれど、ほとんどの場合は忘れています。
 「これではいけない。臨在の生活。ここに敬虔の奥義がある。ここに力強いクリスチャンの生活がある。私も臨在の生活しないといけない。絶えることのないキリストとの生きた交わりの中に生きなければいけない。ということは、24時間寝ても覚めてもキリストを意識しなければならない。」ということで、意識し始めました。でも忘れるので、その日の晩になって激しく悔い改めました。「キリストを意識すると決めたのに、何というクリスチャンだ。何という伝道者だ。」
 「わたしにつながれ、多くの実を結ぶ」と御言葉にあります。「ああ多くの実を結ぶクリスチャンになりたい。」と思いました。そこで、「キリストにつながっています。」と意識することにしました。しかし疲れてしまいました。

 そんな時に、塩屋の神学校当時の同期の梅田先生が、秋穐師から聞いたことを話してくれました。「先生は、朝はどのようにして過ごされていますか。」という質問に、「朝はな、5時か6時に起きて、ちょっちょっと聖書読んで、ちょっちょっとお祈りして、後は肥え汲みしとるんじゃ。」(元庭師の先生で、先生の教会の庭も広い菜園であった。当時のトイレは汲み取り式であった。)
 私は「もちろん兄弟、主の前に静まって、聖書を読み、祈り、黙想する。当然ではないか。」と言う答えを期待していました。しかし、「肥え汲みしとるんじゃ。」という言葉に雷に打たれたような感じでした。私の目が開かれたのです。
 秋穐師の姿勢は、スンベリ師とよく似ています。スンベリ師は、天幕集会などでも「さあ祈って準備しましょう。」というタイプではありませんでした。思いついたら、古いテントを持ち出してきて、トラックに乗せて、「さあ兄弟行きましょう。」ぱーっとテントを張って、アコーデオンを鳴らして、人を集めて。
 最初は、割り切れない気持ちでこの先生について行きました。「祈りもしないで。」とつまずきました。ところが、この祈らないように見える先生が、祈るとすごく霊的であったのです。それでスンベリ師の生き方がわかりました。

 祈りとは、形式ではなく、プログラムでもなく、根本において、24時間主にささげているという確信に立っていく生活のことです。礼拝とは献身です。献身しているという自覚で生活することが、礼拝そのものです。ローマ書12:1はそう言う意味です。キリストが、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなた方につながっています。」「これを信じなさい。信じているということを信じなさい。信じている通りに信じなさい。」単純にそう言う意味だと言うことがわかりました。
 目が開かれました。それから、聖書を何章読むとか、何時間祈るとか、誰に伝道しようとか、どれくらい奉仕しようとかという律法から解放されました。そして全く自由に、主を信じて、主にささげた生活そのものが礼拝であり、主に喜ばれる愛される生活であり、交わりの生活である、ということを教えられて今日に至っています。

 信仰を表現すると、「既にそこにある。しようとする事が既にそこにある。完成されている。これが恵み。」と言えるでしょうか。
The finished work of Calvary.十字架において完成された御業。ヘブル書にもある、創造において、完成した御業。安息しておられる神の安息とひとつになるなら、自分のあがき、努力から解放されて安息します(ヘブル4:10)。

 パウロ書簡の鍵は、既に「キリストにあって、天にあって、祝福されている。」です。感覚においては、生活は単調ですし、恐れと心配でいっぱいです。けれど、これらは人間のレベルです。これを越えて、キリストにあって神の子とされている。愛されている。祝福されている。すべての霊的祝福でおおわれている。常識では、自分は、恵まれていないかもしれない。しかし、このレベルで考えるならば、今この瞬間わたしは祝福されています。既に完成されています。そこに移り、そこにとどまり、座る。その視点から自分の生活を見る。この世界観をもって生活することが、恵みに生きる生活であるということです。
 ですから私たちは、イエス様と結ばれ、キリストにあって既に祝福され、安息し、臨在の中にあり、サタンに勝利し、既に愛されたもの。既にすべてが与えられています。だから与える。献金する。神のレベルでは与えられている。そのように、神の国とその義とを求めなさい。そう信じなさい。そうすれば、衣食住はついてきます。教会の働きも同じです。霊的に真実であるならば、実際的にも真実。これが私たちの結論であり、理念です。そしてこの理念によって、与えなければならないのです。
 「与える」ということ、これが神の国の法則です。既に神がして下さったという視点に立って、その言葉を信じて進みましょう。これがJECの理念です。
 JECの献金の率は、他の団体に比べて高いところにあります。この恵みを知り、そこに立って生きることが身に付いているからだと思います。貴重な真理、生き方です。既に与えられているから、信仰によって与えるのです。

 「既に天にある、キリストにある」完成された神の恵みの中で生かされるという信じ方をしましょう。「既に天にある、キリストにある」これを通して御霊が働かれます。
 キリスト・イエスにあって罪に定められない。罪はあるが、罪はない者として神が認めて下さる。なぜなら、十字架によって罪の原理から切断されているからです。これがわかっているなら、キリストイエスにある、十字架に沿った原理に従っていると信じる私たちを通して神の御霊の原理は、私たちの上に力強く働いて、罪と死の原理からあなたがたを解放し続けます。御霊はあくまでキリストを通して、十字架を通して働かれます。十字架の原理に結ばれている限り、御霊の働きは、時々ではなく、日常いつも現実のお方であることを知ることが出来ます。御霊がいかに十字架の原理を通じて私たちを解放し、解放された新しいわたしを導かれるか、ローマ人への手紙8章の中に見ることができます。
 パウロは徹底した「恵み主義者」でした。JECもそうであると思います。パウロにならって、いよいよ励まされて、恵みに生きましょう。十字架はこの恵みをつくるため、神が配慮された祝福のプログラムです。

 パウロは、「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」(ガラテヤ2:2)と言っています。この恵みをまともに受け取らず、無視して生きることが、神に対する一番の冒涜です。それは、キリストの死を無駄にすることです。キリストが死なれたのは、私たちにはできないからして下さったのです。キリストがそうして下さったのなら、私たちは感謝してこの贈り物を神様から素直に受け取って、この贈り物によって、恵みによって生きる。それが神様を喜ばせることであり、福音を輝かせることであり、私自身の生活を充実させることであり、教会を生き生きとさせ、成長させていくことであると思います。
 続けて、私たちは、この恵みに生きていくお互い、諸教会、その教会に連なるところの一人一人でありたいと思います。