関西聖書学院・前学院長 高橋昭市
使徒パウロは信仰生活を競技をする事にたとえている。そして競技をするからには、賞を得るようにと勧めている。よいコーチから、賞を得るためのいろいろな教えを平素から聞くことができる競技者は幸運な者であり、しかもそれら平素の教えが、握りしめる形にまで要約され、呼吸の間、無意識の層にまで根づいているなら、その人は何と幸いな競技者であろう。
主イエスは信仰生活を、よい羊飼いに導かれる羊の生活にたとえておられる。
わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。(ヨハネ10:9)
彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。(ヨハネ10:4)
信仰生活の二要素は門と道である。門は静、道は動、とそれぞれの特性は対称的である。門は不動、不変であり、それに続く囲いの特徴、群れの特徴を明示している。しかも主御自身が「わたしは門です」と言われたことから、門には単なる表象であることを越えて、遥かに深い内容が秘められていることがわかる。
門はまた、羊が「安らかに出入り」すると言われていることから、最初の入門経験のあとも、道を歩く経験、門通過の経験が幾たびも繰り返されること、そうした羊の生活の中で門がいつも中心的役割を果たすこと、などが自然に教えられる。
信仰生活の2要素は門と道であるが、それぞれの生活の最も重要な「根の部分」を取り上げてみたい。
1、信仰生活の「門」における最も重要な「根の部分」
御子を信じる者は永遠のいのちを持つ。(ヨハネ3:36)
御子を信じる者はさばかれない。(ヨハネ3:18)
門の正面に、門に向かって立つとき、これらの代表的聖言が見える。いや、聞こえる。
生ける神がそう言っておられるのである。「信じる者は」、「信じる者は」といずれも現在形で言われていることに注目したい。そして、信じる者に約束されているすばらしい事柄に、しっかりと目をとめたい。すなわち、永遠のいのちが与えられ、「さばかれない」との約束が与えられているのである。
永遠の神は、たしかに「今」生きておられる神であり、昔から聖徒たちが繰り返し「主は生きておられる」と告白してきたお方である。すべてを概念化して思考の世界に写し変えようとする傾向が強い現代において、自分が生きている「今」について、再検討、再確認する必要は大きい。この「今」あるいは「現在の時」を解明するものとして、パスカルのパンセの中に重要な一文がある。松浪信三郎訳を次に引用したい。「われわれはいつも現在の時にいたためしがない。来るのがとても待ちどおしくて、その歩みを早めさせようとするかのように、未来を待ちこがれているか、さもなければ、あまり速やかに過ぎ去るので、その歩みをひきとどめておこうとするかのように、過去を呼び返している。浅はかにも、われわれは、われわれのものでない時のなかにさまよい、われわれの所有に属する唯一の時を考えない。また、空しくも、われわれは、もはや存在しない時のことを思い、現存する唯一の時を無反省に過ごしてしまう。というのも、現在は、多くの場合われわれを苦しめるからである。・・・・・・」
「現在の時(今の時)」の問題点を明らかにするために、次のような例話を用いたい。
偉大な王がここに立っている。絶大な権力を持ち、しかも正しくきよく愛に満ちた王が、「今という時」こちらを向いて立っている。王の顔は輝き、両眼から太陽のような光が放たれている。王は大声をあげて、「み子を信じる者は永遠のいのちを持つ。み子を信じる者はさばかれない。」と言った。
このような王の言葉にふさわしい受け取り方はどうあるべきだろうか。
王の前に立ち、王に顔を向け、「はい」と答えて王の言葉をそのまま受け取ることである。「今の時」にそうすべきである。誰にでもできる簡単なことではないか。
しかしながら、観念的な習性の中に生きる者にとっては、簡単なことではなくなってしまう。過去、現在、未来は紙上の線の三点であるにすぎず、契約とは捺印した紙を取りかわすことであって、都合によっては変更可能なものと理解している。このような者がかりに王の前に立ったとしても、せっかくの王の言葉は、夢見る者の夢の中の、すぐ忘れ去られる言葉ほどの有効性しかない言葉になるだけである。
「夢見る者」とは通常の人のことであるが、この人が王の前に立つ、すなわち、「現在の時(今)」に立つ可能性はないのであろうか。ないことはない。四囲の壁に出口がなく、追いつめられ、必死の思いで上を見あげるとき、幼子のような心のときなどがまず列挙される。しかし、そのようなときを含み、そのようなときを越えて、不思議にも王の言葉すなわち神の言葉が神の言葉として聞こえてくるときがあるのである。人の計らいを越えた不思議というほかはない。これを恵みという。
思えばありがたい御言葉ではないか。み子を信じる者は永遠のいのちを持ち、さばかれることはない、と言われるのである。誰にでも、信じる者に無代価で与えられる賜物に、広大無辺な神の御慈愛が現れている。(しかし、神は人に侮られるようなおかたではない。恵みを軽んずる者は神の峻厳をさけることができない。)
ともあれ、生ける神の、「今の時」の宣言は不変であり、この御言葉を自分のものとして受け取った者は、不動の根を持った存在となるのである。もし、いつも門の前に立つ生き方を続けることができたら、それは最高の信仰生活ということになろう。しかし、たとえ「いつも」でなくても、1度門を通った人は、なんべんでも門に帰ることができ、そのつど生ける神の御言葉を自分のものとして確認でき、いわば、不抜の根を持つ木となったのである。
2、信仰生活の「道」における最も重要な「根の部分」
信仰生活の「門」において、永遠のいのちと「さばかれない」という約束を与えられ、次は「道」すなわち歩みが始まるわけである。
「門」においては、語られている御言葉をただ信じるという信仰で、「さばかれない」という約束、あるいは、「全ての罪が赦された」という御言葉を受け取った。(十字架上のみ子の代価を保証として・・・。)
神の御業を見るだけで、人の営為が介入しないので、「全ての罪が赦された」とか、神の御業の完全性を表す宣言、約束が鏡像の反射のように「アーメン」と唱えて受け取れたのである。しかし「道」を歩む場合は、実際に心を働かせ体を用いるわけであるから、
「門」の場合とは情況が違ってくる。人の営為が介入してくるように見える。「門」の場合は信仰だけでよかったが、「道」の場合は信仰に努力が加えられなければならないのであろうか。これは微妙な事柄であると同時に聖徒たちにとって極めて重要な問題でもある。
「門」において、「ただ信仰」と謳歌しても、「道」において「信仰プラス努力」であるとするなら、真の福音、解放の喜びはいったいどこにあるのだろうか。
「道」における歩みの問題を明らかにするために、次のような例話を用いたい。
ある人が安全な岸壁から手を離し、遠く目がけて泳ぎだした。次第に疲れてくるが、とにかく自力で泳いで行かねばならない。どうしても目的地まで行かねばならないのである。
ところがそこへ一そうの小舟がやって来て、「つかまりなさい」という船頭の言葉が聞こえた。泳ぎ手が小舟の助けにあずかるためには、ただ船べりにつかまりさえしたらよい。考えることでも、議論したりすることでもなく、ただつかまりさえしたらよいのである。
前掲ヨハネ十章において、羊は羊飼いの声を聞き分けてついていくことが記されていた。救いの門を通ったあと、羊が救いの道を歩み続けるために必要なことは、よい羊飼いにただついていくだけでよいのである。言いかえるならば、道行きには、「ついていく」という信仰が肝要であり、「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つ」と主イエスが言われたことを想起させられる。「ついていく」という動作を伴った信仰自体、考えることでもなく、論ずることでもなく、単純な信仰である。この単純な信仰は、複雑多岐にわたる、道行きにおいて、しっかりと守り通すべき宝ではないか。
主イエスは「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」と言われたが、この宝を守り通すためには、蛇のようなさとさも必要である。単純な信仰を紛れさせる要因がわなのようにもつれているが、それらを列挙してみると、良い羊飼いの姿が見えず、声をたよりにしなければならないこと、聞こえる声はいろいろあり、人々の声、悪い羊飼いの声、自分の心の中から聞こえてくる声などがあること、特に自分の体の奥底から、魂の中枢部を支配している、いわゆる自我の力は強大であり、隠れた王であって、この王の姿が光にさらされない限り、結局は我意を至上に置いてしまうこと、この自我の力から解放するためにイエス・キリストが十字架にかかられ、単純に御霊によって生きるために復活されたこと、などである。(ここに至るまでの、「道行きの単純な信仰」とは、「御霊によって生きる」ことの説明である。)
3、「門」と「道」を超越した「根の部分」
信仰生活は「門」から「道へ」、「道」から「門」へと繰り返し、そのいずれの場合も、単純な信仰によることを述べて来たが、おびただしい繰り返しのうちに、「門」と「道」に共通した、しかももっと深い「根の部分」に至り、その信仰も「単純な信仰」であることが、いくつかの聖句によって示されている。
私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。(使徒2:25)
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(Ⅱコリント3:18)
ここに示されているのは、「主を見る」という単純な信仰である。少しでも視線をわきにそらすと、さまざまなものが見え、その一つに捕らわれると、そこに一つの領域が展開することになる。
しかしながら、こんなにも複雑な、こんなにも多様な世界の中にあって、この集約された単純な信仰によって、保証された人生を、永遠に向けて生きうるということは、何とありがたいことではないか。
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13、14)