(1845年11月5日に生まれ、1931年2月28日に死す)
ジョン・オングマン師の生涯とその働きを紹介しようとするならば、霊的な意味で、特筆すべき役割を演じた、この指導者に対し、その働きにふさわしい、充分な賞賛の言葉を見出す事が非常に難しいことを強調しなければなりません。当時、スウェーデンのキリスト教会の霊的な生活は決して高いものではなく、低迷を続けていたのであります。しかし、師は神の恵みによってキリスト教会の傑出した指導者であると同時に、その時代の最も用いられ、祝福された説教者の一人となりました。
軍人の子供からミッションの指導者へ
オレブロ・ミッションの創設者はジョン・オングマン師であります。師は1845年にスウェーデンのジャムトランド地方の素朴な一家庭に生まれ、成長しました。
回心の後、献身的なクリスチャンとなって、その地方のバプテスト教会に所属しました。数年間、信徒説教者でしたが、その後スウェーデンを去ってアメリカに移住しました。1868年から1890年まで、セント・バウロで神学的訓練を受け、シカゴ、およびセント・パウロで牧師として務めました。その後、スウェーデンに帰り、オレブロ第一バプテスト教会の牧師となりました。1881年、聖書学校を始め、その学校においては女性さえも伝道者として訓練しましたが、この事は、当時非常なセンセーションを巻き起こしました。1892年宣教師会が結成され、1908年には神学校がつくられました。そしてここで幾百人の牧師、宣教師が訓練されてきました。
オングマン師と聖書
米国滞在中、オングマン師は神の言葉に仕える者として、深い、霊的な訓練を受けました。師はシカゴ大学およびセント・パウロ大学に学び、その後数年間、この大きな国アメリカで働いておりました。大伝道者チャールズ・G・フィニーやドクター・A・J・ゴードン、ドクター・A・B・シンプソンなどの影響を多分に受けました。
暫時の霊的な戦いと、内面的な危機を経験した後、オングマン師は力強い方法によって真に自由にされました。オングマン師は神への強い信仰をもつており、非常に深い霊的な聖書教師となりましたが、その教えはこの聖なる書物の預言の部分から取られており、その一つ一つがスウェーデンの私たちのミッションである、オレブロ・ミッションの未来の指導者となるために師を育てる役割を果たしたのでした。
人々は好んで、師を「牧師先生」と呼びました。彼の外観は非常に印象的で、その深みのある音声は、善良で、敬虔な感情を与えましたので人々は「オングマン先生は、本当に神の預言者です。」と言いました。彼の神への信仰は、実に強固で、不変でした。
人々が新しい教会、すなわちフィラデルフィヤ教会をジャルンヴァグスガタンに建てておりました時、多くの物が必要でした。ある日煉瓦工が、師に「もう、一個の煉瓦もありません。」と言いました。そうしますと、師は「さあ、充分な煉瓦が与えられるように今、神さまに祈りましょう。」と言いました。彼らが祈り終わった時、鉄道の事務所から知らせが入り、貨車一杯の煉瓦がが届いており、それは教会宛のものだ、というのでした。人々が数えてみますと、建物のために必要な数に対し、ただの一個も、多くも少なくもなく、一個の欠けることもなく、全ての必要がちょうど満たされました。 それから、またお金を全部使い果たしてしまった時、一人の人が戸口に訪れてきて、オングマン師にたくさんの硬貨や貨幣を渡しました。その人は消えるようにいなくなりましたので、残された唯一の印象は、天使が訪れてきたというものでした。オングマン師は、全ての事において神により頼む人でした。
ある年、スウェーデンにひどい干ばつがあり、農夫たちは非常に心配し、すべてのクリスチャンたちは家庭や教会でその事のために祈りをささげました。ある日、とても大きな連合祈祷会がオレブロの最も大きな教会の一つで持たれました。その日の天気は乾燥しており、空は青く、オレブロに雨がやってくる気配はまったくなかったのです。オングマン師はその祈祷会に出かける時、傘とオーバーシューズを持って出ました。友人の何人かがその姿をいぶかしく思っていると、「私が祈祷会から帰る前に、雨が降るでしょう。」と言いましたが、その通りの事が起こりました。祈祷会が終わった時、先生は、祈りに対して素晴らしい答えを与えたもうた神を賛美しつつ、傘を高くさして歩いて帰りました。 敬愛する牧師であり、私たちのミッションの霊的指導者であったオングマン師は、このような人であり、まことに信仰と聖霊に満ち溢れた人でした。
(1977年5月10日「JECだより」第3号:宣教師 ヘルゲ・ヤンソン記)
オングマン師は、聖書の教えをなすために、スウェーデン中を歩きまわり、数多くの教会から招聘されました。師の教えが最高潮に達したのは、オレブロ聖書学校を開校した時といってよいでしょう。この学校では、聖書を深く、霊的に教えました。開校当初から、時々、祈りのために何日間か授業を休む慣わしがありましたが、あるときはそれが二、三週間にもわたることがありました。リバイバルの必要が、非常に強くせまってきた時には、学校はその必要のために祈り、また戦争のためにも祈りましたがオングマン師は常にその霊的指導者でした。このような祈りのときを通して、いつも多くの人々が、聖霊のバプテスマを受けました。ある人々は肉体の癒しを受け、また多くの青年達が、神の召し-伝道地に出て行くようにとの召命について神からの答えを受けました。オレブロ・ミッション・スクールにおけるこの祈りの時間、それは何日間も続けられたのですが、この時を通してすべてのものがより高いレベルへと引き上げられました。 オングマン師は真に祈りの戦士でありました。
オングマン師と外国伝道
主の証人として外に出ていくようにとの神の召しを受けた最初の人は、クラエス・エミル・ショグレンという名の青年でした。彼はオングマン師に願書を提出し、彼の召命の地、インドへ行けるように助力してほしいと頼みました。オングマン師は祈り始めました。すると献げ物が届き始め、ショグレンは英語の勉強のためイギリスに行くことになりました。しかし、彼は神の召しを受けた多くの若者たちの中のひとりにすぎません。この時以来、多数の男女が続々と世界の果てまで出て行ったのです。
オングマン師は、青年達に対して非常に暖かい心を持っていました。彼は青年達のことばに耳を傾けて彼らのために祈りました。それは主の委任を受けた、これらの人々の将来に信頼していたからです。今日、160名に上る宣教師たちが数ケ国において、伝道の働きをしており、インドでは1908年、ブラジルでは1912年、コンゴでは1914年、中国では1918年、エストニアでは1923年、日本では1950年、ネパールでは1955年、パキスタンでは1960年、タイでは1969年、フランスとバングラディッシュでは1972年、リベリヤとアフガニスタンでは1974年、アラブ世界では1976に、その働きを開始しました。
現在、オレブロ・ミッションの外国伝道部はスウェーデンにおける最大のもののひとつで、多数の男女が異なった伝道地への務めのために登録しております。世界中にいる160名の宣教師たちは現地の200名の牧師、伝道者と共に働いています。神学生たちは三ケ所の神学校と、四ケ所のおおきな聖書学校で訓練されています。診療所では、年間約6万名の患者が手当てを受け、20ケ所の学校において、3000名の子供たちが教育を受けています。青年達、助産婦、家庭婦人のためには種々の訓練センターがあります。9ケ所の孤児院では、数百名の少年少女たちがキリスト教教育を受けています。
牧師、教師、ミッションのリーダーとして
オングマン師は、牧師の務めをこの世の中で最高のものと考えておりました。この務めに比べうるものは何一つなかったのです。ですから、だれでもこの召しに入った人は、福音を宣べ伝えることにより、主の召しについて確信をもって働かなければなりませんでした。師は御言葉の豊かさを宣べ伝えることに熱心でした。そして、個人的に数千の魂をキリストに導きました。彼は「牧師はすべて自分自身の到達した以上に、他の人を導くことはできない。」という確信を持っていました。 彼は魂への情熱を持ち、母国においても、異邦人の世界においても、畑がどれほど熟して刈り入れを待っているかをみておりましたので、世界中の国々にひとりでも多くの宣教師を送り出そう、という思いに燃えておりました。
オングマン師は、イエス・キリストの再臨に関わる神の目覚まし時計でした。師は神の家族のメンバーたちに警告を与え、教え、目覚めさせようと努めていました。彼は私たちの時代における神の見張り役のひとりであり、イエス・キリストの再臨を信じておりました。
スウェーデンの最も偉大ななミッション指導者のひとりであったオングマン師は、1931年2月28日に主のみもとに召されました。
(1977年7月10日「JECだより」第4号:宣教師 ヘルゲ・ヤンソン記)